2016-04-19 第190回国会 衆議院 法務委員会 第12号
中国に撫順市という友好都市がございます。私が市長として派遣団を引率して撫順市を訪れたときのことですが、そのとき、撫順の農家の方がお見えになって、私にイチゴを出してくれました。
中国に撫順市という友好都市がございます。私が市長として派遣団を引率して撫順市を訪れたときのことですが、そのとき、撫順の農家の方がお見えになって、私にイチゴを出してくれました。
中国でODA案件といたしましては、まず草の根・人間の安全保障無償資金協力による撫順市社会福祉院児童施設を視察をいたしました。この施設では、約百名の孤児が暮らしておりまして、中国が著しい経済発展を遂げる中で生じた格差の結果として、多数の貧困生活を送る人々や恵まれない子供たちが存在するという現実を見る思いがいたしました。
だから、例えば撫順の郊外で平頂山事件というのがあった。住民全部皆殺ししちゃったんですよ、間違えてね、ゲリラがおるというので。だから、住民の骨が累々としてそこに今も残っているんですよね。 結局、ゲリラを掃討しようとすると、いやでも応でも大変なことをしなければゲリラの掃討はできないんですよ。その国の国民が占領軍に対して戦おうという意思を持っていないとできない。
これは、一九三二年に旧日本軍が中国の撫順炭坑郊外の平頂山集落において約三千人の住民を虐殺したと言われている事件であります。先週の金曜日に、この被害者からの損害賠償請求がなされていたわけですが、その第一審判決がありました。この判決の中で、その事実、従来明らかに認識されていなかった事実を初めて認定をしたということで、この判決は意義があると言われているわけであります。
撫順炭鉱を見てきました。我々が小さいときには、天然掘りで、撫順炭鉱というのはもう永久に石炭資源があるんだろうと、こう言われておりましたが、行ってみたら、もう縦横、縦六キロ横三キロぐらいで、もうすり鉢の底を掘っているんです。もうほとんどなくなりつつある。そういう状況を目の当たりにしてきました。 私は、去年は中国へ行って韓国へ行ってアメリカに行った。
多分お一人も行っていらっしゃらないのではないだろうかと思いますけれども、これは中国の東北部の撫順というところの近くにあるわけです。ここで昭和七年に三千人の人が一挙に、住民ですけれども、殺されまして、その跡の骨が今八百体ほど掘り出されまして、そしてそこに遺骨館というのが建てられているわけです。このことにつきまして、私たちは戦後三十年余り全然知りませんでした。
私の弟は、当時満州の撫順炭鉱の養成所におったのであります。これが私の家族の昭和二十年の状況であります。 これが私の政治家としての原点であるわけです。それは私の政治家としての原点のみならず、我が国の新しい日本を目指す、我が国のいわゆる原点でもなければならない問題だ、こう思うのであります。そういう中から我々は平和憲法を採択をして、この四十六年、今日の日本の繁栄を築いてきたのではないでしょうか。
冬柴さんの羅津から撫順の御苦労された話もよく聞いております。そういう意味におきまして、私は戦争そのものが大変な人類最大の罪悪だという気持ちはいたしますが、そこを細かく見れば、中には運がよくてという私みたいなのもおりますし、非常に運が悪くて、内地にいても大変な戦災に遭ったりする人もおりますし、兵隊でなくたって引き揚げのときに軍人以上の苦労をした人もおります。
私は捜すのをあきらめまして、日本人の群れにまじって満州の奥地へ流れていったわけでありますが、今最終的に着いた撫順市までの距離を地図の上ではかってみますと、直線距離にして約六百キロメートル、東京―大阪間の距離を超える距離をひとりで移動したということになります。 撫順市では収容所とされた小学校の校舎に収容されたわけであります。
もう一つは、中国でも、撫順へ行ったら万人坑というのがありますね。虐殺されたそのままの跡が、人骨がそのままある。南京に行ってもそういう記念館があります。もちろん韓国にもありますね。そういった人たちに、今総理が言われたように、我々はそういうことはしないんだからと、説明で済む問題じゃないわけですね。 文部大臣、おいでになっていますかね。
私も露天掘りというのは前に中国の撫順炭鉱、これを見たこともございますが、その規模と比べましても、ブレアソールの炭鉱というものは非常に規模が大きく、また非常にすばらしい炭鉱である、このように感じたのでございます。 きょうのお話でも、昭和六十三年度に四百万トン日本の国に輸出しておる、そして将来は、昭和六十五年度末までに八百万トンぐらいにこれが伸びるのではないか、こういうことでございます。
現に中国の撫順炭鉱、西ドイツあるいはポーランド、こういうところでは現実に試験炭鉱が行われている、そのために保安施設が最小限度に実はとどまっていると、こういうことが当委員会で磯部教授から言明がございました。
あるいは撫順の炭鉱ではどうだったの。後で沖縄の集団自決の問題も言いますが、赤子が自決できますか。この写真を見てください。いかに残虐であったかということ。中国はちゃんとこういう写真を保管しているのですよ、旧日本軍の残虐行為というものを。
あるいはまた、日本が満州と呼んだ現在の中国の東北地方では炭鉱の溶鉱炉に、日本人の上役に口ごたえをしたというだけで溶鉱炉の中にけり込まれてしまったような話とか、あるいは食糧難で残飯を食べたために軍犬をけしかけられて傷を受けた年寄りの方、あるいは撫順の平頂山事件で、一九三二年に三千人を機銃掃射して殺したあの大虐殺の生き残りの人が二人おりましたけれども、そういう人たちの話を聞いたり、あるいは上海の紡績工場
もし撫順炭鉱のように才能が露出をしておれば、掘ればよろしいのです。しかしながら、これが十メートル、百メートルと埋没をした能力というものは、手伝いをして、教育の手でボーリングをし、掘り起こさなければならぬ。
ちょうど私も新京で難民の救済の片手間の仕事をしたこともありましたけれども、特に開拓団を中心に地方から新京へ、ハルビンへ、奉天へ、あるいは撫順へと流れてくる人たちの難民救済所というのは全く目を覆うような状態だったと思います。お母さん、お父さんがばたばた倒れていく、子供さんが当時の満人と言われる中国人に引き取られていく、そういう状態がいまだに目の前にほうふつといたします。
○田中国務大臣 先生の御高見に対しましては私は全く同感でございまして、個人的なことを申して相済みませんが、私は、満鉄におりまして、撫順の満鉄式石炭液化法と徳山の海軍燃料廠式石炭液化法の両特許権の融通の問題で満州から東京へ転勤してまいりました自来コールケミカルの問題につきまして一生懸命に御協力をいたし、同時に、企画院の石炭の担当官、軍需省の担当官といたしましてずっと終戦まで勤めたものでございます。
この何度角という指向性、角度を正確に見ましても、たとえば朝鮮、満州の国境に向けてこれがどうなっているとか、あるいは撫順、アムールのどこだとかウラジオストク、全部アンテナごとに方向がはっきりしているのです。大井通信所も、これは詳しくアンテナの配置図がありますけれども、これを見ても明白なわけですね。 大井の場合のいまの単位をお話ししましょう。
私自身も、実は昔、昭和十一年に大学生のときに撫順炭鉱で一カ月ほど炭鉱の坑内実習をいたしましたのが石炭との結びつきで、自後三十八年ばかり石炭問題の研究をさせていただきまして、現在でも、終戦後も夏休みは必ず一回北海道の炭鉱を回りまして、昔は一カ月かかっておりましたが、いまはもう十日そこそこで済むということでございますけれども、そのほか常磐、宇部、九州の各炭鉱を機会あるごとに調査研究をさしていただいております
私は中国へ行って、撫順で電発を見てきました。そうしたら、使用の重油については硫黄濃度をきちっと規制しております。冷却水については暖房に使っております。施設は国がやるわけですから、住民は石炭が要らぬだけ楽なわけです。政府にはこの配慮がないわけです。この第三期開発計画を見まして、宅環境をよくするという条項の中に集中暖房制の問題が取り上げられております。
太原監獄、北京第二監獄、撫順戦犯監獄に十数年間抑留をされていた人が、向こうでラジオを聞くことを許されて、その監房の中でいろいろ、つれづれなるままに放送を聞いたそうです。はっきりVOAの放送を聞いて、その内容について私にこういうふうに語ってくれました。