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74件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

2006-10-25 第165回国会 参議院 政府開発援助等に関する特別委員会 第2号

中国ODA案件といたしましては、まず草の根・人間の安全保障無償資金協力による撫順社会福祉院児童施設を視察をいたしました。この施設では、約百名の孤児が暮らしておりまして、中国が著しい経済発展を遂げる中で生じた格差の結果として、多数の貧困生活を送る人々や恵まれない子供たちが存在するという現実を見る思いがいたしました。  

小泉昭男

2004-04-15 第159回国会 参議院 イラク人道復興支援活動等及び武力攻撃事態等への対処に関する特別委員会 第8号

だから、例えば撫順郊外で平頂山事件というのがあった。住民全部皆殺ししちゃったんですよ、間違えてね、ゲリラがおるというので。だから、住民の骨が累々としてそこに今も残っているんですよね。  結局、ゲリラを掃討しようとすると、いやでも応でも大変なことをしなければゲリラの掃討はできないんですよ。その国の国民が占領軍に対して戦おうという意思を持っていないとできない。

山本正和

2002-07-02 第154回国会 参議院 外交防衛委員会 第22号

これは、一九三二年に旧日本軍中国撫順炭坑郊外の平頂山集落において約三千人の住民を虐殺したと言われている事件であります。先週の金曜日に、この被害者からの損害賠償請求がなされていたわけですが、その第一審判決がありました。この判決の中で、その事実、従来明らかに認識されていなかった事実を初めて認定をしたということで、この判決は意義があると言われているわけであります。

山口那津男

2000-03-15 第147回国会 参議院 経済・産業委員会 第3号

撫順炭鉱を見てきました。我々が小さいときには、天然掘りで、撫順炭鉱というのはもう永久に石炭資源があるんだろうと、こう言われておりましたが、行ってみたら、もう縦横、縦六キロ横三キロぐらいで、もうすり鉢の底を掘っているんです。もうほとんどなくなりつつある。そういう状況を目の当たりにしてきました。  私は、去年は中国へ行って韓国へ行ってアメリカに行った。

梶原敬義

1992-05-07 第123回国会 参議院 国際平和協力等に関する特別委員会 第4号

多分お一人も行っていらっしゃらないのではないだろうかと思いますけれども、これは中国東北部撫順というところの近くにあるわけです。ここで昭和七年に三千人の人が一挙に、住民ですけれども、殺されまして、その跡の骨が今八百体ほど掘り出されまして、そしてそこに遺骨館というのが建てられているわけです。このことにつきまして、私たちは戦後三十年余り全然知りませんでした。

篠崎年子

1991-11-18 第122回国会 衆議院 国際平和協力等に関する特別委員会 第3号

私の弟は、当時満州撫順炭鉱養成所におったのであります。これが私の家族の昭和二十年の状況であります。  これが私の政治家としての原点であるわけです。それは私の政治家としての原点のみならず、我が国の新しい日本を目指す、我が国のいわゆる原点でもなければならない問題だ、こう思うのであります。そういう中から我々は平和憲法を採択をして、この四十六年、今日の日本の繁栄を築いてきたのではないでしょうか。

岡田利春

1991-03-13 第120回国会 衆議院 予算委員会第一分科会 第3号

冬柴さんの羅津から撫順の御苦労された話もよく聞いております。そういう意味におきまして、私は戦争そのものが大変な人類最大の罪悪だという気持ちはいたしますが、そこを細かく見れば、中には運がよくてという私みたいなのもおりますし、非常に運が悪くて、内地にいても大変な戦災に遭ったりする人もおりますし、兵隊でなくたって引き揚げのときに軍人以上の苦労をした人もおります。  

坂本三十次

1991-03-13 第120回国会 衆議院 予算委員会第一分科会 第3号

私は捜すのをあきらめまして、日本人の群れにまじって満州の奥地へ流れていったわけでありますが、今最終的に着いた撫順市までの距離を地図の上ではかってみますと、直線距離にして約六百キロメートル、東京―大阪間の距離を超える距離をひとりで移動したということになります。  撫順市では収容所とされた小学校の校舎に収容されたわけであります。

冬柴鐵三

1990-11-06 第119回国会 衆議院 国際連合平和協力に関する特別委員会 第9号

もう一つは、中国でも、撫順へ行ったら万人坑というのがありますね。虐殺されたそのままの跡が、人骨がそのままある。南京に行ってもそういう記念館があります。もちろん韓国にもありますね。そういった人たちに、今総理が言われたように、我々はそういうことはしないんだからと、説明で済む問題じゃないわけですね。  文部大臣、おいでになっていますかね。

水田稔

1988-10-26 第113回国会 参議院 産業・資源エネルギーに関する調査会 第4号

私も露天掘りというのは前に中国撫順炭鉱、これを見たこともございますが、その規模と比べましても、ブレアソールの炭鉱というものは非常に規模が大きく、また非常にすばらしい炭鉱である、このように感じたのでございます。  きょうのお話でも、昭和六十三年度に四百万トン日本の国に輸出しておる、そして将来は、昭和六十五年度末までに八百万トンぐらいにこれが伸びるのではないか、こういうことでございます。

田辺哲夫

1978-10-18 第85回国会 参議院 外務委員会 第5号

あるいはまた、日本満州と呼んだ現在の中国東北地方では炭鉱溶鉱炉に、日本人の上役に口ごたえをしたというだけで溶鉱炉の中にけり込まれてしまったような話とか、あるいは食糧難で残飯を食べたために軍犬をけしかけられて傷を受けた年寄りの方、あるいは撫順の平頂山事件で、一九三二年に三千人を機銃掃射して殺したあの大虐殺の生き残りの人が二人おりましたけれども、そういう人たちの話を聞いたり、あるいは上海の紡績工場

田中寿美子

1978-03-17 第84回国会 衆議院 社会労働委員会 第5号

ちょうど私も新京で難民救済の片手間の仕事をしたこともありましたけれども、特に開拓団を中心に地方から新京へ、ハルビンへ、奉天へ、あるいは撫順へと流れてくる人たち難民救済所というのは全く目を覆うような状態だったと思います。お母さん、お父さんがばたばた倒れていく、子供さんが当時の満人と言われる中国人に引き取られていく、そういう状態がいまだに目の前にほうふつといたします。  

和田耕作

1977-04-08 第80回国会 衆議院 商工委員会 第10号

田中国務大臣 先生の御高見に対しましては私は全く同感でございまして、個人的なことを申して相済みませんが、私は、満鉄におりまして、撫順の満鉄式石炭液化法と徳山の海軍燃料廠式石炭液化法の両特許権の融通の問題で満州から東京へ転勤してまいりました自来コールケミカルの問題につきまして一生懸命に御協力をいたし、同時に、企画院石炭担当官軍需省担当官といたしましてずっと終戦まで勤めたものでございます。

田中龍夫

1975-06-03 第75回国会 衆議院 内閣委員会 第21号

この何度角という指向性、角度を正確に見ましても、たとえば朝鮮、満州の国境に向けてこれがどうなっているとか、あるいは撫順、アムールのどこだとかウラジオストク、全部アンテナごとに方向がはっきりしているのです。大井通信所も、これは詳しくアンテナ配置図がありますけれども、これを見ても明白なわけですね。  大井の場合のいまの単位をお話ししましょう。

中路雅弘

1974-03-13 第72回国会 衆議院 石炭対策特別委員会 第6号

私自身も、実は昔、昭和十一年に大学生のときに撫順炭鉱で一カ月ほど炭鉱坑内実習をいたしましたのが石炭との結びつきで、自後三十八年ばかり石炭問題の研究をさせていただきまして、現在でも、終戦後も夏休みは必ず一回北海道の炭鉱を回りまして、昔は一カ月かかっておりましたが、いまはもう十日そこそこで済むということでございますけれども、そのほか常磐、宇部、九州の各炭鉱を機会あるごとに調査研究をさしていただいております

兼重修

1972-03-15 第68回国会 衆議院 運輸委員会 第4号

私は中国へ行って、撫順電発を見てきました。そうしたら、使用の重油については硫黄濃度をきちっと規制しております。冷却水については暖房に使っております。施設は国がやるわけですから、住民石炭が要らぬだけ楽なわけです。政府にはこの配慮がないわけです。この第三期開発計画を見まして、宅環境をよくするという条項の中に集中暖房制の問題が取り上げられております。

井野正揮

1971-12-25 第67回国会 参議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会、逓信委員会、建設委員会連合審査会 第2号

太原監獄、北京第二監獄撫順戦犯監獄に十数年間抑留をされていた人が、向こうでラジオを聞くことを許されて、その監房の中でいろいろ、つれづれなるままに放送を聞いたそうです。はっきりVOAの放送を聞いて、その内容について私にこういうふうに語ってくれました。

木島則夫